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ところ 何有荘アートギャラリー

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは1889年、オーストリア、ウィーンに生まれた20世紀の天才哲学者。その代表作『論理哲学論考』は今日においても哲学のバイブルとして読まれています。
父祖はユダヤ商人の家系、父は製鉄産業で莫大な富を築き裕福な家庭に育ちました。
4才まで言葉を話さず、学校教育を受けず、自宅教育で育てられました。
姉のマルガレーテは画家のグスタフ・クリムトの絵のモデル、兄、パウル・ウィトゲンシュタインは有名なピアニスト、戦争で右手を失い、友人達のモーリス・ラヴェル、リヒャルト・シュトラウス、セルゲイ・プロコプロコイフェフらが、彼のために左手のピアノ曲を作曲するなど、当時の文化人、画家、音楽家などが出入りする刺激的な家庭環境にありました。ウィトゲンシュタインは初めから哲学を志向した訳ではなく、実技的な機械工学を学び、不可分である数学への関心から、イギリスのケンブリッジ大学のバードランド・ラッセルの『数学原理』など、数理論理学へと興味を持つようになりました。
1912年、ケンブリッジ大学のトリニティ カレッジへ進み、B・ラッセルや、J・E・ムーアの元で論理の基礎を学び、研究を始めました。この頃に、マクロ経済学のJ・M・ケインズと出会い、終生に渡る友情と尊敬を結びます。また大学の教授たちの間での研究に限界を感じ、父を看取る為に故国に戻り、その後もケンブリッジには戻らず第一次世界大戦が始まるまで、ノルウェーの山小屋に隠遁し、論理学の研究に没頭しました。生涯で最も情熱的に取り組んだ時期であり、この時に哲学界に激震をもたらした『論理哲学論考』の草稿が完成します。
1914年、第一次世界大戦が勃発し、志願兵として各地に配属、参戦します。この戦争での体験は哲学が何の役に立つのか、孤立を深め、自殺を考えるようになります。この頃から哲学的、宗教的な内省をノートに書き留めています。論考の「写像理念」はこの時の体験から起こしたアイデアであると言われています。戦時中に脱稿した『論理哲学論考』をなんとか出版しようと自らも、また、ラッセルやオグデンが出版社や共同出版など様々に働きかけ刊行に奔走しますが、思うように進まず、出版への熱意と哲学への情熱を失い、再び、自殺を考えるようになりました。
シュタインはこの本を書き終えた時点で哲学の問題は全て解決したと考え、哲学を離れてオーストリアに戻り、教員免状を取得して田舎の小学校の教師になります。ウィトゲンシュタインの考える独自の教育理念は、紙の上の知識より子供達が自発的に好奇心を持って見聞を広めることを重視した、社会科見学や観察をさせたり、数学は早い段階で代数学を教えるなど、熱心な教師でしたが、保守的な地域では地元や同僚の理解を得られぬまま孤立していきます。熱心なあまり厳格となり体罰問題から失意のうちに辞職します。
1928年、ラッセルとムーアの勧めで『論理哲学論考』を博士論文として提出、学位を取得、翌29年にケインズの招きで16年ぶりに、ケンブリッジに復帰。トリニティ カレッジのフェローとなり教壇に立ちます。
学校問題で悶々としていた頃から、ウィーン学団という哲学の研究サークルが、論理実証主義を標榜し形而上学を打ち立てるに、論理学と科学、とりわけ数学の基礎、数理哲学に関する徹底的な再検証が必要である、と、ウィトゲンシュタインを引き入れようとしましたが、叶いませんでした。
その頃から『論理哲学論考』には重大な誤りがあるのではないか?と考えるようになり再び、哲学への関心を取り戻し、記号論理学、言語普遍論理想定の哲学からコミュニケーション行為に重点を変え、自らの哲学の再構築に挑みます。
39年、ケンブリッジ大学の哲学科教授となり、晩年はアイルランド西海岸の田舎で孤独な研究生活を送ります。
後期の代表作『哲学探究』の原稿を残して、51年に癌にて死去。
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